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奈良地方裁判所 昭和28年(タ)7号 判決

主文

原告照子と被告俊則とを離婚する。

被告俊則は原告照子に対し金八万円を支払うこと。

原告照子のその余の請求は棄却する。

原告俊則の離婚及び慰藉料請求はいずれも棄却する。

訴訟費用は両事件を通じこれを三分し、その二を被告(昭和二八年(タ)第八号事件原告)俊則その一を原告(昭和二八年(タ)第八号事件被告)照子の負担とする。

この判決中第二項は、原告照子か金三万円の担保を供するときは、仮りに執行することが出来る。

事実

(省略)

理由

先づ昭和二十八年(タ)第七号事件について、

その方式、趣旨に依つて真正に成立したと認められる甲第一号証証人堀部文三郎同斎藤マツヱの各証言によれば原告は父乾勇母キワの長女として大正九年十一月四日出生し、被告は父宮田富造母チカの三男として大正十一年一月十六日出生したのであるが、昭和二十五年一月二十九日堀部文三郎及び斎藤マツヱの媒酌によつて婚姻の儀式を挙げ同月二月十八日妻の氏を称する婚姻届を済ませたことが認められる。

よつて先づ原告照子の離婚の主張について判断するに、原告は被告の性格が頗る粗暴であつて妻たる原告に対して愛情なくその職業を理解しないで度々暴力を振るいそのため到底将来婚姻を継続することが出来ないと主張し、之に対して被告は原告の主張を否認しその主張の被告か暴力を振つたことは全部事実無根か或は一連の事件の一局部の片言行動を捉えて針少棒大に作りあげたものであつて被告と原告か兎角円満を欠いたのはむしろ原告が詩文に凝つて主婦たるの務を忘却し被告夫を顧みないことにあるのであると主張することは前示のとおりであるが、成立に争いがないところより真正に成立したものと認める甲第二号証、証人杉本与一同塚田信司同堀部文三郎同斎藤マツヱ同高井義顕同杉本侃勇同中島文夫、同宇都宮勝子同乾和子同乾キワ同乾勇の各証言及び原告照子並に被告俊則の各本人訊問の結果を綜合すれば本件婚姻の成立前及成立後の事情として、原告は水田約八反畑半反を耕作する純農である乾勇の長女であつて、奈良女子師範学校を卒業し婚姻当時奈良県北葛城郡五位堂小学校に教員として勤務しており、被告は同県磯城郡多村に於て一町余を耕作する自作農宮田富造の三男として生れ田原本農学校を卒業し農業に従事していたものであるが、前示斎藤マツヱ及び堀部文三郎の仲介によつて原告と被告との間に縁談が進められ、昭和二十四年夏頃原告は被告と三輪神社で見合後所謂結婚前の交際として笠置、宝塚にいつた際原告が被告に対し婚期を失してるのは結婚後も教員をし且文学の研究を続けて行くのでその理解を求めたのと原告の父母が原告が長女であるところから家業である農業を継ぐことを要求し意見が合わなかつたためであることを話し、右の点に付て被告に理解を求めたところ被告はこれに対し承諾を与えた。かくして原告は被告と前示の如く結婚し従来のように前示小学校に教員として勤め被告は原告の父母及び妹二人と祖母と共に原告父母の家で同居するようになり原告方の農業を手伝うと共に婚姻前より耕作していた同県同郡耳成村十市の小作田二反余を引続いて耕作して居た。尤も原告が結婚式の翌日被告と共に被告の実家に行つた時、被告は原告が被告の持参した荷物について被告方の親族に対し礼を述べないといつて双方の親族のいる前で原告を押倒して蹴り被告の兄が止めたこともあつたがその後半年余は何事もなく夫婦の仲は良かつた。そして原告は同年三月三十一日付で大阪市東成区大阪市立片江小学校にその勤務先を変えたが、これについて被告は大阪は詩文同好者が多いので以後益々詩に凝るであろうとして反対した。ところが同年十月六日頃原告方居村の村祭りの宮坐の当番が原告方に廻つて来たのでそのことについて原告や原告の母等家族が相談をしていたところ、被告が側から意見を述べたので原告が「あなたは来られてからまだ日が浅いから御存じないのです」といつたのに対して、被告は「女のなりして」というなり突然原告の胸を掴え頸を締めたので、これを見ていた母キワが驚いて「照子が殺される」と大声を出したところ被告は母に対し「お前も殺してやろう」と迫るので母は表に逃げ出し隣家の夫妻が来てこれを静めたことがあつたが、それ以来原告方では原告を始め家族は皆被告を恐れる様になつて爾来夫婦の仲は兎角円満を欠くようになつた。又昭和二十六年五月頃原告は腹痛を催したので奈良医科大学附属病院に行つて診察してもらつたところ、医師より流産をしているので早く処置をとらぬと母体が危いと告げられ、すぐその処置をうけ、直ちにそのことを同行した妹和子をして被告に知らせたが帰宅後無断で処置をしたといつて被告が怒つたこと同年七月末頃原告が生徒や父兄と共に六甲山へ遠足に行くことになつたので日頃留守の原告に代つて被告に対する世話等家事に励んでいるので之を慰労するため妹和子をさそつたところ、被告は「自分も連れて行け」といつて朝食中に箸を投け出したりしたので結局妹和子も行かなかつたことがあり、同年十月頃、原告は当時勤務先の片江小学校でPTAの書記をしていた関係上会議のため帰宅が遅れたことがあつたが、被告は帰りが遅いといつて原告の帰途を待伏せて殴つたゞとがあり、同年十二月正月用の衣服の仮縫のため外出した時帰りが予定より遅くなつたところ、被告は田から帰つて来て原告を殴りに来たので一時間程戸外に逃げて避けていたことがあつた。更に昭和二十七年二月頃原告が降雪のため学校から帰りが遅くなつたところ被告は遅いと怒つて原告を戸外に追出して錠を掛けてしまつたので原告は已むなく長時間雪の降る戸外で立つていたことがあり、又その頃休日に原告は被告及び前示和子と共に被告か小作していた前示十市の麦踏に行つた時、原告は被告に対してかくては休日は文学研究に当てると言う結婚前の約束と違うといつたところ被告は激怒して矢庭に原告を突倒し蹴る等の暴行を加え妹和子が泣いてとめたので漸く之をやめた程であつた。その後同年九月一日より被告も原告の尽力によつて関西電力株式会社尼崎配電所に勤めに行く様になつた。ところがその後同年十月頃原告が伊勢へ修学旅行に行つた時帰宅が相当遅くなつたので被告より叱責されることを恐れ自動車で帰つたところ自動車で原告を迎えにいつた被告と行き違いになつたため大分殴られたことがあり、又同年十二月頃原告は頭痛がしたので勤務を休み懇意な医師に来診をうけたところ、被告は自分に無断で医師を呼んだといつて痛く憤慨して原告と離婚すると言出し、又原告を殴りに来たので同医師よりなだめられたことがあつた。その頃より原告は被告と離婚すべきではないかと考えるようになり昭和二十八年一月初旬原告と被告間で大体離婚することとしたため原告父母も之を納得したのでその後その双方の親族及び前記媒酌人等の来訪を求めて原告等と共に離婚について協議したがその席上婚姻の継続を要請する媒酌人等に対して原告は被告の粗暴の行為に鑑み将来結婚の継続は不可能であると主張し被告も亦原告が学校勤務、詩文創作をやめて常に家事に精励すべき旨主張したので結局話合いが出来ない儘、同年三月三十一日被告はその兄よりの電報によつて実家に帰りその後今日迄別居していること。そして婚姻生活を通し原告被告の生計は殆と主として学校教員である原告の収入に依存し被告の自己小作田よりの収入、関西電力株式会社勤務よりの収入は原告の父の小作権買受等に合計約金五万円余のみ被告から支出されているに過きなかつたこと、その後原告被告双方より夫々奈良家庭裁判所に離婚並に慰藉料請求の調停を申立てたがいずれも不調に終つたことか認められる。前記証拠中右認定に反する部分はすべてこれを措信できないし、又他に右認定を覆えすに足る証拠はない。

さて以上認定の事実よりすると、原告と被告間の婚姻生活が破綻するに至つた原因は、専ら被告が原告に対してその妻として勤めに出ることなく普通の農家の主婦の如く終始家庭にあつて家業である農業を手伝い夫の身辺を世話し家事にいそしむことを望んでおつたに拘らず、前示の如く原告は稍々その日常の態度に柔軟性を欠き、教員として勤務し更に詩文の研究を続けそのため帰宅は常に夕刻前後となり時に夜になることも再三あつて一日の大部分を夫々別々に過すことに相当不満を懐いていて而も原告の両親も亦被告と同様に原告が教員並に詩文の研究をやめ専ら農家の主婦として家事に専念することを希んでいることを知つていたこと、及びその学歴、年令等より又婚姻後の生活が習慣環境の異る原告方でありその地位も亦所謂家長ではなく原告の夫としてのそれであつて必ずしも安定し且つ原告より優越していなかつた為に原告に対して相当劣等感を懐いていたので元来直情径行むしろ稍粗暴な嫌もあつて原告の心情を理解しその才能を育成することなく常に自己の便宜のみを考慮するに止つていたために事あるごとに原告に対し叙上認定のように暴力を振つていたことにあると認められる。これに対して、被告は原告がその婚姻前被告の希望によつては何時でも教員を辞めると約束したに拘らず、被告の要求があつてもこれを辞めず加えて詩文に熱中するのあまり主婦としての務を全く怠りかくして結婚生活が破綻するに至つたと主張するけれども先づ前示認定のように被告は原告に対してその婚姻前原告が将来も教員を続け且文学を研究してゆくことに承諾を与えて居り却つて被告主張のように原告が被告に対して学校勤務をやめることに付て承諾を与えたと認めるに足る証拠はないから前示の如く原告がその勤務の都合上、或は詩文研究のため時々その帰宅が遅れそのために主婦として家事に或は夫である被告の身辺の世話に多少欠くるところがあつたとしても叙上認定のように被告は炊事等を自らなすことを要せず又原告の妹和子に於て多少姉原告の留守中は姉に代つて被告の身辺を世話していたからその不足とても主婦としての務を欠いて居て夫である被告としては全く堪えることが出来ないものとは認められず、まして被告としては前示の如く婚姻前に原告に対し将来も教員並に詩文作を続けて行くことを承諾して居り、又原告が自ら希望しているところとは言え、原告被告夫婦生活は終始その生計上の責任を殆ど原告が単独で負担していたことをも考慮するときは原告に対する多少の不満は現在迄の過程に於ては暫くこれを忍ぶべきであつてもし原告の性格態度に不満であるときは寛容の態度を以て原告を理解し而して愛情を以て徐々に原告の生活態度を改変せしむべきであると認定せざるを得ないから、被告がこのような態度に出ないで、その原告に対する前記の形而上の不満を充すため原告に対して前記認定のように(その被告の心情は理解し得べきところであるが)形而下的の暴力を振つたことは許されないところであつて斯る事実は民法第七百七十条第一項第五号にいう婚姻を継続し難い重大な事由があるときに該当するものと言はざるを得ない。従つて原告と被告の離婚を求める原告の請求は理由があるので正当として之を認容すべきものである。

次に原告の慰藉料の請求について判断するに、前示の如く原告に多少の落度があるも本件婚姻は結局被告の責に帰すべき事由によつて解消を余儀なくされたものであつてそのことによつて原告は精神上苦痛を蒙つたことは明らかであるから、被告は原告に対してこれが損害の賠償として相当額の慰藉料を支払うべき義務がある。そこで賠償額について考へると、前顕各証拠によれば原告は田約八反畑半反を有する農家の長女として大正九年十一月四日に出生し、奈良女子師範学校を卒業して小学校の教員として勤務しており初めて被告と結婚し前示の如く結婚生活に破綻を来したことも手伝つて別居後間もなく胸を病み現在入院加療の身であること。一方被告は田約八反畑三反を有する農家の三男として大正十一年一月十六日に出生し田原本農学校を卒業し続いて農業に従事しており初めて原告と結婚し前示の如く結婚生活に破綻を来たした結果その実家に帰える迄の昭和二十五年より昭和二十八年迄の間も前示十市の小作田を耕作してその収入は自らが全部収得しており更に昭和二十八年よりは前示電力会社に勤めるようになり月額一万円の給料を得ていたものであることが認められ、これ等の事実と前示の如き離婚に至つた経緯とを彼此斟酌するときは、右慰藉料は金八万円を相当とするから原告のこの点に関する請求は右限度において正当としてこれを認容し、その余は失当として棄却する。

次に昭和二十八年(タ)第八号事件の原告俊則の主張する離婚原因の存否について判断すると、原告と被告との間の結婚生活の破綻の原因及びその責任は前段認定の如くであつて即ち被告が勤務の都合上或は詩文の研究のため時々帰宅の遅れ、或はそのため主婦としての勤めに必ずしも万全でないところがあつたが前示認定のように被告が婚姻後も小学校教員を継続することを原告に於て承認する旨の結婚前の約束があつた以上原告において右の程度の不満は忍容すべきであつて、全証拠によつてもその程度以上に右のつとめを欠いたということはこれを認めることはできない。原告は稍粗暴に亘る性格の為主として右の不満をおさえることが出来ないで妻たる被告に対して度々暴力を振つたことは前示認定のとおりであつて、即ち原告と被告との結婚生活が全く破綻に陥つたのは結局原告の責に帰すべき原因によつて生じているのであるから原告において自ら結姻解消の事由となるべき行為をなし乍ら叙上認定の通り右解消の事由に該当しない被告の些少な行為を主張して離婚を求めることは出来ないのであつて従つて原告と被告との離婚を求める原告の請求は失当であつてこれを棄却すべきである。

次に慰藉料の請求について按ずるに、原告の右の点に関する請求は本件婚姻の解消の責任が被告に在ることを前提としての右解消に因る慰藉料の請求であるのに、右解消の責任は叙上認定の通り原告に在つて被告に存しないことは明白であるから原告の慰藉料請求ももとより失当として棄却すべきものである。

仍つて訴訟費用の負担について民事訴訟法第八十九条第九十二条但書仮執行の宣言について同法第百九十六条第一項に則つて主文のとおり判決する。

(裁判官 菰淵鋭夫 坂口公男 松井薫)

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